ラーンナーと周辺の王国
北・東北・南のもうひとつのタイ史 (13–18C)
この章の要点
- ラーンナーはマンラーイ王が1296年にチエンマイを建設して確立した、北部の独立王国である。
- 1558年からおよそ200年、ラーンナーはビルマの支配下に置かれた。
- 南部のパタニなどマレー系ムスリム国家は、深南部問題の歴史的な起点となっている。
タイ史を中部の王朝だけで語ると、国土の半分以上が抜け落ちてしまいます。北にはチエンマイを都とするラーンナー王国が独自の文字と文化を育て、東にはラオ人のラーンサーン、南にはマレー系のスルタン国がありました。これらはいずれも、19世紀末までは「別の国」でした。
3-1 マンラーイ王とラーンナーの成立
北部の盆地では、スコータイとほぼ同じころ、別のタイ族の王国が育っていました。チエンセーン(メコン河畔)のンガーンヤーン家に生まれたマンラーイ王(พญามังราย)は、1259年に王位を継ぐと、周囲のムアンを次々に統合していきます。1262年にチエンラーイを建設し、1281年にはモン人の王国ハリプンチャイ(ラムプーン)を攻略。そして1296年、ピン川のほとりに新しい都チエンマイ(เชียงใหม่=新しい都市)を開きました。
国名のラーンナー(ล้านนา)は「百万の水田」の意味です。山に囲まれた盆地に灌漑を張りめぐらせ、豊かな米作を実現した国の自負が表れています。
1296年 チエンマイ建設と「三王の同盟」
※ 三王が誓いを交わしたという伝承。チエンマイ旧市街の三王記念碑はこの場面を表し、市民の待ち合わせ場所になっている。
3-2 ティローカラート王の黄金期
ラーンナーの最盛期を築いたのは、第9代ティローカラート王(พระเจ้าติโลกราช、在位1441〜1487)です。領土を東西に広げ、南のアユタヤ(ボーロマトライローカナート王)と長い戦争を繰り広げました。両国の争いは、スコータイの旧領(ピッサヌロークなど)の支配権をめぐるものでした。
同時に彼は仏教の大保護者でもありました。1477年、チエンマイのワット・チェットヨートで、パーリ語三蔵の校訂を行う大結集(タイでは第8回仏典結集と呼ばれる)を主催。ラーンナーは東南アジアの仏教学の中心地となり、この時期に書かれた年代記『ジナカーラマーリー』などが、いまも重要史料となっています。
📘 用語
- カムムアンคำเมือง
- 北タイ語。標準タイ語とは語彙・声調が異なる。北部では日常語として健在。
- タム文字ตัวเมือง
- ラーンナー独自の文字。仏典の書写に使われ、現在も寺院の掲示などに残る。
- ワット・チェディルアン
- チエンマイの巨大仏塔。かつてエメラルド仏が安置されていた。1545年の地震で上部が崩落。
- ラーンナー暦
- 独自の紀年法をもち、祭りの日取りが中部と異なることがある。
3-3 ビルマ支配の200年
16世紀、ビルマ(タウングー朝)のバインナウン王が東南アジア大陸部を席巻します。1558年、チエンマイは陥落し、ラーンナーはビルマの属国となりました。以後およそ200年、北部はビルマの統治下に置かれます。この間、ラーンナーの王はビルマが任命し、住民は労役と貢納を課されました。
解放は18世紀後半に訪れます。アユタヤ陥落後に台頭したタークシン王が北へ兵を進め、ラムパーンの首長カーウィラ(กาวิละ)がこれに呼応。1774〜75年にかけてチエンマイはビルマから解放されました。ただしそれは独立の回復ではなく、バンコク王朝の属国(プラテートサラート)への移行でした。ラーンナーが完全にタイに統合されるのは、ラーマ5世の行政改革(1899年、モントン・パヤップの設置)を待たねばなりません。
📍 チエンマイで「別の国」を歩く
チエンマイ旧市街は、いまも四角い堀と城壁の跡に囲まれています。ワット・チェディルアンの崩れた大仏塔、ワット・プラシンの北部様式の本堂、そしてラーンナー民俗博物館(旧裁判所)を回ると、中部の寺院とは屋根の形も仏像の顔つきも違うことがはっきり分かります。
バンコクからは飛行機で約1時間10分。週末の小旅行にちょうどよい距離です。
3-4 ラーンサーン――メコンの向こうの兄弟国
メコン川の東では、1353年にファーグム王がラーンサーン(ล้านช้าง=百万の象)を建国しました。現在のラオスの原型です。言語も文化もタイ族と極めて近く、アユタヤ・ラーンナー・ラーンサーンは、婚姻と戦争を繰り返す「親戚同士」の関係でした。
ラーンサーンは1707年にヴィエンチャン、ルアンパバーン、(のちに)チャンパーサックの3王国に分裂し、18世紀末にはシャム(トンブリー/バンコク)の宗主権下に入ります。1779年、タークシンの遠征軍がヴィエンチャンから運び去ったエメラルド仏は、現在バンコクの王宮内ワット・プラケーオに安置されています。この仏像はラオスにとって国民的な記憶であり、両国関係のデリケートな話題であり続けています。
⚠️ イサーンの人びとは「ラオ人」だった
現在のタイ東北部(イサーン)に住む人びとの多くは、歴史的にはラーンサーン系のラオ人です。18〜19世紀、戦争のたびにメコン左岸から右岸へ大規模な住民移動が行われました。イサーン語がラオ語とほぼ同じなのはこのためで、「タイ人」という枠組みが作られたのは20世紀以降のことです。
3-5 南部――海の国とスルタン国
マレー半島には、また別の秩序がありました。ナコンシータンマラート(นครศรีธรรมราช)は、シュリーウィジャヤの流れをくむ古い港市国家で、「12の属国(ムアン・シップソーン・ナクサット)」を従えたと伝えられます。スコータイに仏教を伝えたのもこの都市でした。
さらに南では、15世紀以降、イスラム教が急速に広まります。マラッカ王国の繁栄とともに、半島各地の港市がイスラム化し、パタニ(ปัตตานี)、ケダー、クランタン、トゥルンガヌといったスルタン国が生まれました。とくにパタニは16〜17世紀、4代の女王のもとで交易の中心地として栄え、アユタヤに貢納しつつ、実質的には独立した王国でした。
これらのスルタン国は、19世紀から20世紀初頭にかけてシャムに編入され、1909年の英シャム条約でケダー・ペルリス・クランタン・トゥルンガヌはイギリス領マラヤへ、パタニはシャム領へと振り分けられました。現在のパッタニー・ヤラー・ナラーティワート3県で続く紛争は、この歴史的経緯と切り離せません。
💭 「タイ」はいつ一つになったのか
本章で見たとおり、19世紀までのこの地域は、中部のシャム、北部のラーンナー、東北部のラオ諸国、南部のマレー系スルタン国という複数の政治体の集合でした。
それらが単一の「タイ王国」にまとめられたのは、植民地圧力に対抗するためにラーマ5世が中央集権化を進めた19世紀末以降です。つまりタイという国民国家は、わずか120年ほどの歴史しかもちません。地方の多様性を理解する鍵が、ここにあります。
まとめ
- ラーンナーはマンラーイ王が築いた北部の王国で、1296年にチエンマイを都とした。
- ティローカラート王の時代(15世紀)が黄金期。1477年に仏典結集を主催した。
- 1558年から約200年、ラーンナーはビルマの支配下にあり、その後バンコクの属国となった。
- 東にはラオ人のラーンサーン、南にはマレー系のスルタン国という別の世界があった。
- 現在のタイの版図がまとまるのは、19世紀末の中央集権化以降である。
章末チェック
1. チエンマイを建設した王の名と建設年を答えなさい。
マンラーイ王、1296年
2. ラーンナーの最盛期を築いた王と、1477年に行われた事業を答えなさい。
ティローカラート王、仏典結集(三蔵の校訂)
3. ラーンナーがビルマの支配下に入った年と、解放された時期を答えなさい。
1558年に従属、1774〜75年に解放(以後バンコクの属国)
4. エメラルド仏がバンコクにもたらされた経緯を説明しなさい。
1779年、タークシン王の遠征軍がヴィエンチャンから持ち帰った
5. パタニ王国の最盛期はいつで、どのような特徴があったか。
16〜17世紀。4代の女王のもとで交易により繁栄し、アユタヤに貢納しつつ実質的に独立していた
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