半民主主義から経済危機へ
1980年 〜 2000年 (1980–2000)
この章の要点
- プレーム政権(1980〜88)の「半民主主義」のもとで、輸出志向の経済成長が始まった。
- 1992年5月の流血事件を経て、軍は政治の表舞台から退いた。
- 1997年のアジア通貨危機はタイから始まり、同年の「人民憲法」が政治を作り替えた。
1980年代のタイは、静かな安定と急激な成長を経験しました。日本企業が続々と進出し、「アジアの奇跡」の一員と呼ばれるようになります。1992年には市民が軍政を退けて民主化が定着したかに見えました。しかし1997年、バーツの暴落がすべてを揺るがします。そのなかで生まれた「人民憲法」が、次の時代の扉を開きました。
13-1 プレームの「半民主主義」と経済の離陸
プレーム・ティンスーラーノン(在任1980〜88)は、選挙に一度も出ないまま8年間首相を務めました。議会は選挙で選ばれ、政党が閣僚を出す。しかし首相は軍の支持を背景とする非議員。この折衷は「半民主主義(プラチャーティパタイ・クルンクン)」と呼ばれます。1981年と1985年にはクーデター未遂もありましたが、プレームは国王の信任を背景に乗り切りました。
この時代に、タイ経済の性格が変わります。1984年のバーツ切り下げ、1985年のプラザ合意による円高。コスト上昇に苦しむ日本企業が、生産拠点を一斉にタイへ移しました。東部臨海開発計画(レムチャバン港、マープタープット工業地帯)が動き出し、タイは農業国から輸出向け製造業の国へと転換していきます。
1988年、チャートチャーイ・チュンハワンが1976年以来はじめて選挙で選ばれた首相となりました。彼の掲げた「インドシナを戦場から市場へ」というスローガンは、冷戦の終わりを先取りするものでした。経済成長率は年10%を超え、バンコクは建設ラッシュに沸きます。一方で閣僚の利権あさりは激しく、「ビュッフェ内閣」と揶揄されました。
13-2 1992年5月――市民が軍政を退けた日
1991年2月、汚職を口実に軍がクーデターを起こします。実力者はスチンダー・クラープラユーン陸軍司令官。暫定首相には実業家出身のアーナン・パンヤーラチュンが選ばれ、その手堅い改革は今日でも高く評価されています。
問題は1992年3月の総選挙後に起きました。軍系政党が第一党となり、「私は首相にはならない」と公言していたスチンダーが、4月に非議員のまま首相に就任したのです。元バンコク都知事チャムロン・シームアンが無期限のハンガーストライキに入り、抗議は数十万人規模に膨れ上がりました。
5月17日から20日にかけて、軍はデモ隊に発砲します。公式の死者は数十人、行方不明者も多数。携帯電話をもつ中間層が多く参加したことから「携帯電話暴動」とも呼ばれました。5月20日夜、国王がスチンダーとチャムロンを召し出し、二人が床にひれ伏して訓戒を受ける映像が全国に放送されます。スチンダーは辞任し、軍は兵舎に戻りました。
この事件以降、「軍は政治に介入しない」という規範が定着したかに見えました。1992年から2006年まで、実際にクーデターは起きていません。しかし2006年、その前提は崩れることになります。
13-3 1997年――トムヤムクン危機
1990年代のタイは、資本流入のうえに建っていました。1993年に導入されたBIBF(バンコク国際銀行ファシリティ)を通じ、企業は低金利のドルを大量に借り入れます。バーツは事実上ドルに固定されていたため、為替リスクは意識されませんでした。資金は不動産と株式に流れ込み、バンコクには空室だらけの高層ビルが林立します。
1996年、輸出が失速し、経常赤字はGDPの8%に達しました。不良債権の噂が広がり、ヘッジファンドがバーツを売り浴びせます。中央銀行は外貨準備を投じて防戦しましたが、力尽きました。
1997年7月2日、タイはバーツを変動相場制に移行させます。通貨は半年で価値をほぼ半分に落とし、ドル建て債務を抱えた企業は次々と倒れました。IMFに172億ドルの支援を要請し、緊縮財政と金融機関の閉鎖という条件を受け入れます。1998年の経済成長率はマイナス7.6%、失業者は200万人を超えました。
バーツの対ドル相場と経済成長率
危機はインドネシア、韓国、マレーシアへ波及し、アジア通貨危機と呼ばれる事態になります。タイ発の危機であったことから、国際的には「トムヤムクン危機」の通称で知られています。
💭 危機が残した3つの影
① IMFへの不信――緊縮を強いる処方箋への反発は、その後の「自立した経済」志向(王室の唱えた足るを知る経済など)につながりました。
② 外資への開放――経営破綻した企業や銀行が外資に買収され、外国資本の存在感が高まりました。
③ 強い政治への渇望――「危機を乗り切る強い政府」を求める空気が広がり、実業家タクシン・チナワットの登場を準備しました。
13-4 1997年憲法――「人民憲法」
危機と同じ年、タイは16番目の憲法を手にします。1996年に公選の憲法起草議会が設けられ、全国で公聴会が開かれ、1997年10月11日に公布されました。起草過程に市民が関与した初めての憲法であることから、「人民憲法」と呼ばれます。
この憲法のねらいは2つありました。ひとつは汚職と買票の抑制――独立機関を設けて政治家を監視する。もうひとつは政権の安定――離合集散する小政党の乱立を抑え、強い首相と大政党による安定した統治を実現する。
結果として、この設計はきわめてよく機能しました。2001年の総選挙で、タクシン・チナワット率いるタイ・ラック・タイ党が圧勝します。強い首相、大政党、任期を全うする政権――憲法が意図したとおりの姿でした。しかしその「強さ」こそが、次の対立の火種になるのです。
📍 1992年5月の現場
ラーチャダムヌーン大通り――民主記念塔から王宮方面へ向かう道が、1973年、1992年、そして2010年代の抗議行動の舞台となってきました。民主記念塔の近く、コックウア交差点の5月17日記念碑は、1992年の犠牲者を悼むものです。
経済史に興味があれば、タイ銀行博物館(バーンクンプロム宮殿、チャオプラヤー川沿い)へ。1997年危機の展示があり、当時の新聞や外貨準備の推移を見ることができます。
まとめ
- プレームの半民主主義下で、プラザ合意後の日本企業進出を機に輸出志向の成長が始まった。
- 1992年5月の流血事件と国王の介入により、スチンダーが辞任し軍は政治から退いた。
- 1997年7月2日のバーツ変動相場制移行がアジア通貨危機の引き金となった。
- 1998年の成長率はマイナス7.6%。IMFの支援と緊縮を受け入れた。
- 1997年憲法は独立機関と強い首相を導入し、結果としてタクシン政権の登場を準備した。
章末チェック
1. 「半民主主義」とはどのような体制か、プレーム政権を例に説明しなさい。
議会と政党は選挙で選ばれるが、首相は非議員で軍の支持を背景とする折衷体制
2. 1985年のプラザ合意がタイ経済に与えた影響を述べなさい。
円高により日本企業がタイへ生産移転し、輸出志向の製造業が発展した
3. 1992年5月事件の経過を、原因・弾圧・収拾の順に説明しなさい。
スチンダーが非議員のまま首相に就任したことへの抗議が拡大し、5月17〜20日に軍が発砲、国王の介入でスチンダーが辞任した
4. 1997年の通貨危機はなぜ起きたか。2つの要因を挙げなさい。
ドル固定相場のもとでの短期外貨借入の膨張/不動産バブルと経常赤字の拡大(輸出の失速も可)
5. 1997年憲法の特徴を3つ挙げなさい。
公選の起草議会による作成/上院の直接選挙/独立機関の設置(首相は下院議員に限定、政党移籍制限なども可)
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