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CHAPTER 12現代

民主化運動と、その揺り戻し

1973年 〜 1980年 (1973–1980)

この章の要点

  1. 1973年10月14日、学生・市民の運動が軍事政権を倒した(10月14日事件)。
  2. 続く3年は「民主主義の実験」の時代だったが、左右の対立が激化した。
  3. 1976年10月6日のタマサート大学事件とクーデターで、運動は暴力的に終わらされた。

1973年10月14日、50万の市民が街を埋め、軍事政権は倒れました。しかし3年後の1976年10月6日、大学構内で学生が虐殺され、民主主義は再び閉ざされます。この2つの十月は、現在に至るタイ政治の対立の原点であり、いまも語ることが難しい記憶でもあります。

12-1 1973年10月14日――軍事政権を倒した日

きっかけは小さな出来事でした。1973年6月、ラームカムヘーン大学の学生が政府を風刺した文章を発表し、9人が除籍される。抗議集会に数万人が集まり、除籍は撤回されました。学生は、集まれば政府を動かせることを知ったのです。

10月6日、「憲法を制定せよ」と訴えるビラを配った活動家13人が逮捕されると、抗議はタマサート大学から始まり、10月13日にはラーチャダムヌーン大通りを埋める50万人の行進になりました。行き着いた先は、1932年の革命を記念する民主記念塔でした。

政府は釈放と憲法制定の約束に応じ、群衆は解散を始めます。ところが10月14日未明、王宮周辺で警官隊と学生が衝突。その後、軍が発砲し、ヘリコプターからの銃撃も行われました。公式発表で死者77人、負傷者800人以上。同日夕方、ラーマ9世がテレビで国民に語りかけ、タノーム、プラパート、ナロン(「三人の暴君」と呼ばれた)は国外へ去りました。

王は法学者サンヤー・タンマサック(タマサート大学学長)を首相に任命します。軍が退き、学者が首相となり、新憲法が起草される――タイの人びとはこの日を「ワン・マハーウィパヨーク(大いなる悲しみの日)」と呼び、同時に民主化の記念日としてきました。

1973年10月・1992年5月の舞台――ラーチャダムヌーン大通り周辺

チャオプラヤー川 ラーチャダムヌーン大通り 王宮 ワット・プラケーオ サナームルアン タマサート大学 1973・1976の中心 民主記念塔 1932年革命の記念塔 コックウア交差点 1973年10月14日の衝突地点 → 戦勝記念塔へ カオサン通り 王宮 = 伝統的権威 民主記念塔 = 1932年の革命 タマサート = 学生運動 この3点を結ぶ道が、近代タイの政治の舞台
王宮(伝統的権威)、民主記念塔(1932年の革命)、タマサート大学(学生運動)を結ぶ一帯が、20世紀タイの政治の舞台だった。いま歩いても、1キロ四方にすべてが収まっていることに驚く。
1973.6
学生の除籍事件ラームカムヘーン大学で政府批判の学生9人が除籍される
1973.10.6
13人の逮捕憲法制定を求めるビラを配った活動家が逮捕される
1973.10.13
50万人の行進ラーチャダムヌーン大通りから民主記念塔へ
1973.10.14
流血の日衝突で77人が死亡。国王の介入で三指導者が出国
1973〜76
「民主主義の3年」1974年憲法、2度の総選挙、活発な労働・農民運動
1976.10.6
タマサート大学の惨劇極右勢力と警察が学生を襲撃。同日クーデター
1976〜77
タニン政権極端な反共路線。学生数千人がジャングルへ
1980
命令66/2523投降者に恩赦。共産党の武装闘争は急速に終息へ

12-2 「民主主義の3年」とその軋み

1974年に公布された憲法は、それまでで最も民主的な内容でした。1975年と1976年に総選挙が行われ、ククリット・プラーモート、セーニー・プラーモートの兄弟が相次いで首相を務めます。ククリット政権は中華人民共和国と国交を樹立し(1975年)、米軍の撤退(1976年完了)を進めました。

同時に、社会運動が一斉に噴き出します。労働組合のストライキは1973年の501件から急増し、農民連盟は小作料の引き下げと土地改革を要求。学生は農村に入り、識字教育と組織化を進めました。

これに対する反発も激しいものでした。1974〜75年にかけて農民運動の指導者が相次いで暗殺され(判明分だけで20人以上)、右派の大衆組織が急速に組織されます。軍系のナワポン、職業訓練学校生を動員した赤いガウル(クラティン・デーン)、そして内務省・国境警備警察が組織した村落スカウト(ルークスア・チャオバーン)

1970年代なかばのタイ政治 勢力の見取り図

左:タイ共産党(CPT)山岳部で武装闘争
左:学生・労働・農民運動民主化と土地改革を要求
中道:民主党/社会行動党議会政治の担い手
右:王室・軍・官僚秩序と反共
右:右翼大衆組織ナワポン、赤いガウル、村落スカウト

※ 1973年10月の勝利で開いた「政治の窓」は、左右の街頭対立を激化させ、1976年に閉じた。

国際情勢も緊張を高めました。1975年、南ベトナム、カンボジア、ラオスが相次いで共産化。「次はタイだ」という恐怖が、社会に広がっていきます。

12-3 1976年10月6日

1976年9月、国外にいたタノーム元首相が僧の姿で帰国し、王宮近くの寺に入りました。学生たちは退去を求めて抗議を再開します。その最中、ナコンパトムでビラを貼っていた電力公社の労働者2人が殺害され、遺体が吊るされました。10月4日、タマサート大学の学生がこの事件を再現する劇を行います。

翌日、右派系の新聞が、劇中で吊るされた学生の顔が王太子に似せてあると報じました。これは事実誤認であったとされますが、報道は激しい怒りを引き起こします。10月6日早朝、警察と右翼組織がタマサート大学を包囲し、構内へ突入して学生を襲撃しました。公式の死者は46人ですが、実際にはさらに多いとみられています。生きたまま吊るされ、殴られ、焼かれる場面が写真に残り、そのうちの1枚は翌年のピュリッツァー賞を受賞しました。

その日の夕方、軍がクーデターを起こして政権を掌握。極端な反共主義者の文民タニン・クライウィチエンが首相となり、検閲と粛清が始まりました。数千人の学生・知識人が地下に潜り、山岳地帯のタイ共産党に合流します。

⚠️ いまも「終わっていない」事件

10月6日事件では、誰ひとり刑事責任を問われていません。翌1977年の恩赦法によって、関係者はすべて免責されました。犠牲者の名簿すら長く公表されず、教科書の記述も数行にとどまってきました。

2000年代以降、タマサート大学に記念碑が建てられ、毎年10月6日には追悼式が行われています。しかし詳細を公に論じることは、いまも慎重さを要する主題です。

12-4 振り子の戻り――1977年から1980年へ

タニン政権の極端な政策は、軍内部からも「共産党に人を送り込んでいるようなものだ」と批判されました。1977年10月、クリアンサック将軍がクーデターで首相となり、検閲を緩め、恩赦を出し、10月6日事件で起訴されていた学生を釈放します。

そして1980年、プレーム・ティンスーラーノンが首相に就任。彼が出した首相府命令66/2523は、タイ現代史の転換点でした。「共産主義に勝つのは軍事力ではなく政治である」として、投降者に恩赦と社会復帰を約束したのです。

同じころ、中国とベトナムの対立(1979年の中越戦争)でタイ共産党は中国の支援を失い、内部でも路線対立が起きていました。数千人の学生・活動家が山を下り、大学や職場に戻ります。1983年ごろまでに、タイ共産党の武装闘争は事実上終わりました。後年、彼らの多くが政治家・官僚・NGO・ジャーナリストとして活躍し、1990年代以降のタイ社会に大きな影響を与えていきます。

💭 「10月世代」という人脈

1973年と1976年を経験した世代は、タイで「10月世代(コン・ドゥアン・トゥラー)」と呼ばれます。彼らは大学で運動を経験し、山で共産党の実践を見て、都市へ戻ってきました。

この世代からは、後の民主化運動の指導者、憲法起草者、そしてタクシン政権の閣僚や赤シャツの活動家、さらには反タクシン運動の指導者までが出ています。同じ経験をした者たちが、2000年代には敵味方に分かれたことが、現代タイ政治の複雑さを物語っています。

📍 2つの10月を歩く

民主記念塔(ラーチャダムヌーン大通り)――1973年10月14日の中心地。近くのコックウア交差点には10月14日記念公園があり、犠牲者の名が刻まれています。

タマサート大学ター・プラチャン校舎(王宮のすぐ北、チャオプラヤー川沿い)――構内のサッカー場わきに1976年10月6日の記念碑があります。隣接するサナームルアン(王田)が、事件の日に群衆で埋まった場所です。

まとめ

  • 1973年10月14日、50万人規模のデモと衝突で77人が死亡し、軍事政権が倒れた。
  • 1974年憲法のもと3年間の民主政治が続いたが、左右の街頭対立が激化した。
  • 1976年10月6日、タマサート大学で学生が虐殺され、同日のクーデターで民主政治は終わった。
  • 多くの学生がタイ共産党に合流したが、1980年の命令66/2523と国際情勢の変化で武装闘争は終息した。
  • 「10月世代」はその後のタイ社会・政治のあらゆる陣営に人材を供給した。

章末チェック

1. 1973年10月14日事件の経過を、きっかけ・規模・結果の順に説明しなさい。

憲法制定を求める活動家13人の逮捕をきっかけに50万人が行進し、14日の衝突で77人が死亡。国王の介入で軍指導者3人が出国し、文民首相が誕生した

2. 1973〜76年の「民主主義の3年」に起きた社会運動の例を2つ挙げなさい。

労働組合のストライキの急増/農民連盟による土地改革要求/学生の農村活動 など2つ

3. 1976年10月6日事件のきっかけとなった出来事を説明しなさい。

タノーム元首相が僧として帰国し抗議が再燃、劇の写真が王太子を侮辱したと報じられ、右翼組織と警察が大学を襲撃した

4. 首相府命令66/2523の内容と歴史的意義を述べなさい。

共産主義への対抗は軍事ではなく政治だとして投降者に恩赦を与えた。武装闘争終息の決定打となった

5. 「10月世代」とはどのような人びとか。

1973年・1976年の学生運動を経験した世代。のちに政治・行政・報道など各分野の担い手となった

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