冷戦と開発独裁
1948年 〜 1973年 (1948–1973)
この章の要点
- ピブーン第2次政権は対米同盟に踏み切り、SEATOの本部がバンコクに置かれた。
- サリットは憲法・議会・政党を停止し、「開発」と王室の権威で統治した。
- ベトナム戦争は米軍基地と特需をもたらし、タイ社会を急速に変えた。
戦後のタイは、アメリカの最も忠実な同盟国のひとつになりました。隣国が次々と共産化するなか、タイは基地を提供し、援助を受け、高度経済成長を実現します。その裏で、憲法も議会も停止され、王室は国家の中心へと復権しました。現代タイの政治構造は、この時代に組み立てられます。
11-1 ピブーンの再登板とアメリカ
1948年に首相へ復帰したピブーンを待っていたのは、冷戦の始まりでした。1949年に中華人民共和国が成立し、1950年に朝鮮戦争が勃発、1954年にはフランスがディエンビエンフーで敗れてインドシナから撤退します。
タイの選択は明確でした。朝鮮戦争にアジアで最初に派兵し(延べ約1万1千人)、1954年には東南アジア条約機構(SEATO)の設立をバンコクで主導、本部もバンコクに置かれました。見返りとして、アメリカからの軍事・経済援助が流れ込みます。
1955年、ピブーンはアメリカ訪問の影響で民主化を試みました。政党結成を認め、ロンドンにならって王宮前広場に自由演説の場「ハイドパーク」を設けます。しかし1957年2月の総選挙は露骨な不正に彩られ、学生と市民の抗議が広がりました。この混乱を口実に、同年9月、陸軍元帥サリット・タナラットがクーデターを起こします。
11-2 サリット体制――「開発」という統治
サリット(สฤษดิ์ ธนะรัชต์)は1958年10月に自ら「革命」を宣言し、憲法を廃止、議会を解散、政党を禁止しました。統治の根拠となったのは、革命団布告第17条――首相が国家の安全に必要と判断すれば、裁判なしに処罰できるという条項です。実際に放火犯や麻薬密売人が即決で銃殺されました。
その一方で、彼は新しい統治の言葉を用意します。パッタナー(พัฒนา=開発)です。1961年に第1次国家経済開発計画を開始し、道路・ダム・電力・灌漑に投資。「政治の季節は終わった。これからは開発の時代だ」というメッセージは、経済成長という結果をともなって広く受け入れられました。
| 人物 | 立場 | 要点 |
|---|---|---|
| ピブーン | 首相 1948〜57 | 対米同盟。SEATOと朝鮮戦争派兵 |
| サリット | 首相 1959〜63 | 憲法停止。開発と王室の権威 |
| タノーム | 首相 1963〜73 | ベトナム戦争と米軍基地 |
| ラーマ9世 | 国王 1946〜2016 | 巡幸と王室プロジェクト |
王室の復権
サリット体制のもう一つの柱が、国王の権威の再構築でした。1932年以降、王室は政治の表舞台から遠ざけられていましたが、サリットは王室儀礼を復活させ、国王夫妻の地方巡幸と外国訪問を奨励し、国家の日を6月24日(立憲革命記念日)から12月5日(国王誕生日)へ変更しました。
若きラーマ9世は、この機会をとらえて全国をまわり、農村の水利や農業を支援する王室プロジェクトを次々に立ち上げます。王は「国民に寄り添う王」として尊敬を集め、軍の権威を王の権威が支え、王の権威を軍が守るという関係が形づくられました。この構図は、その後半世紀のタイ政治を規定します。
⚠️ サリットの死と遺産
1963年にサリットが病死すると、莫大な遺産をめぐる相続争いから、国家予算の私的流用や多数の愛人の存在が明るみに出ました。「清廉な指導者」という像は崩れましたが、開発と王室を統治の柱にする体制そのものは、後継者に受け継がれました。
11-3 ベトナム戦争とタイ社会の変貌
後を継いだタノーム・キッティカチョーン(首相1963〜73)の時代、タイはベトナム戦争の最前線基地となりました。1960年代半ばには、ウドーンタニー、ウボンラーチャターニー、ナコンパノム、コラート、タクリー、ウタパオなどに米空軍基地が置かれ、北ベトナムへの空爆の約8割が、タイ国内の基地から発進したとされます。駐留米兵は最大約5万人。タイも南ベトナムに約1万1千人を派兵しました。
戦争は巨額の外貨をもたらしました。基地建設、物資調達、そして兵士の休暇(R&R)。バンコクのパッポン、パタヤといった歓楽街が発展したのもこの時期です。同時に、道路と電気が農村に届き、テレビが普及し、地方から都市への人口移動が加速しました。
高度成長期の経済(概数)
しかし成長の果実は均等ではありませんでした。バンコクと地方の格差、土地を失う農民、増える都市の貧困層。1965年8月7日、タイ共産党(CPT)はナコンパノム県で武装闘争を開始します(タイでは「最初の銃声の日」と呼ばれる)。山岳地帯を拠点とするゲリラ戦は、その後20年近く続きました。
📘 用語
- SEATO
- 東南アジア条約機構(1954〜77)。本部バンコク。反共の集団防衛機構だったが実効性は乏しかった。
- ASEAN
- 1967年8月8日、バンコク宣言により5か国(タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール)で発足。タイは創設国のひとつ。
- ドミノ理論
- 一国が共産化すれば周辺国も次々に倒れるという米国の戦略観。タイ支援の根拠となった。
- CPT
- タイ共産党。華人系知識人が多く、中国共産党の影響下にあった。1965年から武装闘争。
💭 ASEANはバンコクで生まれた
1967年8月8日、バーンセーン(チョンブリー県)の保養施設で草案が練られ、バンコクのタイ外務省でバンコク宣言が署名されました。設立の主導者はタイのタナット・コーマン外相です。
冷戦下の反共同盟という側面をもちつつ、ASEANは内政不干渉と全会一致(ASEAN Way)を原則としました。現在10か国(東ティモールを加え11か国体制へ移行中)に拡大し、タイ外交の主要な舞台であり続けています。
11-4 軍事政権の行きづまり
タノームは1968年に憲法を公布し、1969年に総選挙を実施しました。しかし議会は予算をめぐって政府と対立し、1971年11月、タノームは自ら憲法を廃止して議会を解散します(自己クーデター)。自分がつくった憲法を、自分で破ったのです。
この露骨な権力維持は、社会の変化と噛み合っていませんでした。1960年代の大学拡張により学生数は急増し、1969年に約5万人だった大学生は1970年代半ばに10万人を超えます。彼らは新聞や雑誌を通じて政治を論じ、汚職と縁故を批判し始めていました。1973年、その圧力は臨界点に達します。
まとめ
- ピブーン第2次政権は朝鮮戦争派兵とSEATOで対米同盟を選び、援助を得た。
- サリットは憲法・議会・政党を止め、「開発」と王室の権威によって統治した。
- 国家の日が12月5日(国王誕生日)に変わり、王室が国家の中心へ復権した。
- ベトナム戦争で米軍基地と特需が生まれ、経済成長と都市化が加速した。
- 格差の拡大を背景に、1965年からタイ共産党の武装闘争が始まった。
章末チェック
1. SEATOの本部が置かれた都市と、設立の年を答えなさい。
バンコク、1954年
2. サリット体制の統治の柱を2つ挙げなさい。
開発(パッタナー)と王室の権威(反共・第17条による強権も可)
3. 国家の日が6月24日から12月5日に変更された意味を説明しなさい。
立憲革命の記念日から国王誕生日へ移すことで、国家の正統性の源を人民党の革命から王室へ移した
4. ベトナム戦争がタイ社会に与えた影響を3つ挙げなさい。
米軍基地と特需による外貨流入/道路・電力など地方インフラ整備/都市化と格差の拡大(歓楽街の発展も可)
5. ASEANが発足した年・場所と、タイの役割を答えなさい。
1967年、バンコク(バンコク宣言)。タイは創設5か国の一つで、タナット外相が主導した
この続きはアプリで。一問一答・模擬テスト・読了記録つきで、同じ本文をアプリでも読めます。オフラインでも動きます。
開く →