ピブーン時代と第二次世界大戦
1938年 〜 1947年 (1938–1947)
この章の要点
- ピブーン政権は「ラッタニヨム(国家信条)」で生活様式まで国家が指導した。
- 1939年、国名がシャムからタイに変わった。汎タイ主義の表れである。
- 日本と同盟しつつ自由タイ運動が連合国と通じ、戦後は敗戦国の扱いを免れた。
1930年代後半、タイは「国民国家づくり」を一気に加速させます。国名をシャムからタイへ変えたのもこの時期です。そして戦争。日本軍の進駐を受け入れて同盟を結びながら、同時に連合国と通じる地下組織を動かす――この「二枚看板」が、戦後のタイの運命を決めました。
10-1 ピブーンの国家改造
1938年12月、ピブーンソンクラーム(แปลก พิบูลสงคราม)が首相に就任します。立憲革命の中心人物のひとりで、フランス留学組の砲兵将校。ボーウォラデートの乱を鎮圧した実績で軍内の声望を得ていました。彼が理想としたのは、強い指導者のもとで国民が一体となる近代国家です。
その手段がラッタニヨム(รัฐนิยม=国家信条)でした。1939年から1942年にかけて12の布告が出され、服装、あいさつ、言葉づかい、食事、家庭生活にまで国家が指針を示します。
| 内容 | ねらい |
|---|---|
| 国号を「タイ」に統一し、国民を「タイ人」と呼ぶ | 民族名と国家を一致させる |
| 国旗掲揚・国歌斉唱の義務化(毎日8時と18時) | 国民としての一体感 |
| 洋装の奨励(帽子・靴・スカート)。伝統的な巻き布の禁止 | 「文明国」としての体裁 |
| 「サワッディー」というあいさつの普及 | 共通の作法をつくる |
| 中部タイ語の標準化。地方語・中国語学校の抑制 | 言語の統一 |
| 昼寝の禁止、勤労と時間厳守の奨励 | 生産性の向上 |
1939年6月24日(立憲革命の記念日)、国号はシャム(สยาม)からタイ(ประเทศไทย)へ変更されました。「タイ」は民族名であり「自由」の意味をもつとされます。しかしこの改称には、もうひとつの含みがありました。「タイ族が住む土地はすべてタイのもの」という汎タイ主義です。ラオス、シャン(ビルマ)、雲南、そして失われた「14の領土」の回復が視野に入りました。
⚠️ 華人政策の転換
ピブーン期には中国語学校の閉鎖、華人の職業制限、米穀取引など基幹産業からの排除が進みました。多くの華人系住民はタイ名を名乗り、タイ語を話し、タイ社会への同化を選びます。現在のタイで華人系の存在が「見えにくい」のは、この同化政策の結果でもあります。
10-2 仏印との戦争と領土回復(1940〜41)
1940年、フランス本国がドイツに敗れると、ピブーンは好機とみてフランス領インドシナに領土返還を要求します。同年11月から国境で戦闘が始まり(タイ・フランス領インドシナ紛争)、陸空では優勢だったものの、1941年1月17日のコーチャン島沖海戦では海軍が敗北しました。
ここで仲裁に入ったのが日本です。1941年5月の東京条約で、タイはバッタンバン、シェムリアップの一部、ラオスのメコン右岸地域を得ました。バンコクにはこれを記念して戦勝記念塔(アヌサーワリー・チャイサモーラプーム)が建てられます。現在BTSの駅名として毎日耳にするあの塔は、この戦争の記念碑なのです。なお、これらの領土は戦後1946年にすべて返還されました。
10-3 1941年12月8日――日本軍の進駐
1941年12月8日未明、日本軍はマレー半島とタイ南部に上陸しました。ソンクラー、パタニ、ナコンシータンマラート、プラチュアップキーリーカンなど各地でタイ軍・警察・青年義勇隊との戦闘が起き、数時間で数百人の死傷者が出ています。ピブーンは地方視察で不在でしたが、同日昼に帰京し、通過を認める決定を下しました。
12月21日、日タイ同盟条約が調印され、1942年1月25日、タイはイギリスとアメリカに宣戦を布告します。ところがワシントンのセーニー・プラーモート駐米大使は、「これは国民の意思ではない」として宣戦布告文書を米政府に手渡しませんでした。アメリカはタイを交戦国と認定せず、この一事が戦後の運命を分けます。
泰緬鉄道
1942年から43年にかけ、日本軍はタイのノーンプラードックからビルマのタンビュザヤまで、全長約415キロの泰緬鉄道を建設しました。工事には連合軍捕虜約6万人と、東南アジア各地から集められた労務者(ロームシャ)約20万人が動員され、捕虜約1万2千人、労務者は数万人(推計は大きく幅がある)が死亡したとされます。
カンチャナブリーのクウェー川鉄橋は、映画『戦場にかける橋』の舞台として世界に知られています。現在は連合軍共同墓地(約7千の墓)、JEATH戦争博物館、そして最難所だったヘルファイア・パスの追悼施設が公開されています。
📍 カンチャナブリーで戦争を歩く
バンコクから車で約2時間。連合軍共同墓地、クウェー川鉄橋、タイ・ビルマ鉄道センター(展示が最も充実)、そして車で1時間ほど北のヘルファイア・パス記念館(オーストラリア政府運営、入場無料)。
日本人として訪れると、複雑な感情をともなう場所です。しかしタイ現代史の重要な現場であり、タイ側の労務者や住民が受けた被害についても展示されています。
10-4 自由タイ運動と、戦後への着地
宣戦布告と同じころ、国内では自由タイ運動(เสรีไทย=セーリータイ)が動いていました。指導者は摂政のプリーディー(コードネーム「ルアン」)。アメリカのOSS(CIAの前身)、イギリスのSOEと連携し、情報を送り、飛行場を秘密裏に整備し、武器を受け取り、数万人規模の地下組織を育てます。
1944年7月、ピブーンは議会で信任を失って辞職。文民のクワン・アパイウォン内閣が成立し、自由タイの活動はさらに広がりました。1945年8月16日、日本の降伏を受けて、タイは平和宣言を発します。「宣戦布告は憲法の手続きに反する無効なものであった」――アメリカはこれを受け入れ、イギリスも賠償請求を最終的に緩和しました。タイは敗戦国とならず、1946年12月に国際連合へ加盟します。
💭 もし宣戦布告文書が届いていたら
セーニー大使の判断がなければ、タイは正式な交戦国として占領統治を受け、戦後の歩みはまったく違ったものになった可能性があります。戦後、セーニーは首相となり、プリーディーもまた首相の座につきました。
この「二枚看板」は、しばしばタイ外交の柔軟さ(竹の外交)の象徴として語られます。強風になびきながら折れない竹――大国のはざまで生き残る、ラーマ4世以来の方針がここにも見てとれます。
10-5 1946年の悲劇と、軍の復帰
1945年12月、20歳になったラーマ8世(アーナンタマヒドン)がスイスから帰国します。しかし1946年6月9日の朝、王宮の自室で頭部を銃で撃たれて死亡しているのが発見されました。事件の真相はいまも不明で、タイ国内では公の議論が難しい主題です。弟のプーミポンアドゥンヤデートが18歳で即位し、ラーマ9世となりました。
この事件は政治的にも決定的でした。当時首相だったプリーディーは、責任を追及されて辞任・亡命に追い込まれます。1947年11月、軍がクーデターを起こし、翌1948年、ピブーンが首相に返り咲きました。1932年の革命が掲げた「文民による立憲政治」の理想は、ここで大きく後退します。
まとめ
- ピブーン政権はラッタニヨムで生活様式まで指導し、1939年に国号をタイへ変更した。
- 対仏印戦争で領土を一時回復したが、1946年に返還した(戦勝記念塔はその記念碑)。
- 1941年12月8日に日本軍が進駐、12月21日に同盟、1942年1月に英米へ宣戦布告した。
- 自由タイ運動と、宣戦布告文書を届けなかったセーニー大使の判断で、敗戦国扱いを免れた。
- 1946年、ラーマ8世が謎の死を遂げ、ラーマ9世が即位。1947年のクーデターで軍が復帰した。
章末チェック
1. ラッタニヨムとは何か。具体例を2つ挙げて説明しなさい。
国家が国民の生活様式を指導した布告。国旗掲揚と国歌斉唱の義務化/洋装の奨励/「サワッディー」の普及/中部タイ語の標準化 など2つ
2. 国号がシャムからタイに変わった年と、その背景にある思想を答えなさい。
1939年。タイ族の住む土地を統合しようとする汎タイ主義
3. 戦勝記念塔は何を記念して建てられたか。
1940〜41年の対フランス領インドシナ戦争と、それによる領土回復
4. タイが敗戦国扱いを免れた理由を2つ挙げなさい。
自由タイ運動が連合国と連携していた/セーニー駐米大使が宣戦布告文書を届けなかった
5. 泰緬鉄道について、建設時期・区間・犠牲者を説明しなさい。
1942〜43年、タイのノーンプラードックからビルマのタンビュザヤまで約415km。連合軍捕虜約1万2千人と多数のアジア人労務者が死亡した
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