ナショナリズムと1932年立憲革命
1910年 〜 1935年(ラーマ6世・7世) (1910–1935)
この章の要点
- ラーマ6世は「国家・宗教・国王」の三本柱でタイ・ナショナリズムを組み立てた。
- 1932年6月24日、人民党(カナ・ラーサドーン)が無血クーデターで立憲君主制へ移行させた。
- 革命後は人民党内部の対立と軍の台頭が続き、1935年にラーマ7世が退位した。
近代化は、意図せざる結果を生みました。西洋に学んだ官僚と軍人が育ち、彼らは「なぜ国の運命を一族が決めるのか」と問い始めます。1932年6月24日の朝、一発の銃弾も撃たれないまま、150年つづいた絶対王政は終わりました。現代タイ政治のすべての論点が、この日から始まります。
9-1 ラーマ6世――「タイ人」をつくる
ラーマ6世(ワチラーウット、在位1910〜1925)は、9歳から17年間をイギリスで過ごし、オックスフォードで歴史と法律を学んだ王でした。帰国した彼が直面したのは、多民族の集合体を「国民」にまとめるという課題です。
彼が打ち出したのが、「国家・宗教・国王」の三本柱でした。これは現在に至るまでタイの公式イデオロギーであり、1917年に制定された三色旗は、この3要素を色で表しています。
ラーマ6世が掲げた国民統合の三本柱
※ この3つを重ねたものが、1917年に制定された三色旗(トン・トライロン)である。
- 義勇団(スアパー=野生の虎団)の創設――王直属の準軍事組織で、忠誠心を育てた。
- 姓の制定(1913年)――それまで庶民に姓はなかった。王自ら数千の姓を考案したという。
- 義務教育(1921年)――初等教育を義務化し、標準タイ語を全国に広げた。
- チュラーロンコーン大学(1917年)――タイ最初の大学。
- 第一次世界大戦への参戦(1917年)――連合国側に立ち、1918年にヨーロッパへ派遣軍を送った。戦勝国となったことで、不平等条約の改正交渉が動き出した。
⚠️ ナショナリズムの影
ラーマ6世は「東洋のユダヤ人」と題する論説で華人を批判しました。経済力をもちながらタイに同化しない集団への警戒が背景にありますが、この論調は後のピブーン期の華人政策へつながります。国民統合の推進は、同時に「国民でない者」を線引きする作業でもありました。
一方で王の浪費と、演劇や文学への傾倒は批判を招きます。1912年には、若手将校らが共和制樹立をめざす計画が発覚しました(未遂)。絶対王政への疑問は、すでに軍の内部から生まれていたのです。
9-2 ラーマ7世と世界恐慌
ラーマ7世(プラチャーティポック、在位1925〜1935)は、兄から巨額の財政赤字を引き継ぎました。王は最高評議会(王族の長老会議)を設けて緊縮を進めますが、1929年の世界恐慌が追い打ちをかけます。米価は暴落し、税収は激減。政府は官吏の大量解雇と給与カットに踏み切りました。
解雇された中級官僚と、昇進の道を絶たれた将校たちの不満は、「王族が要職を独占している」という怒りに向かいます。王自身は立憲制の導入を検討し、憲法草案を作らせていましたが、最高評議会が「時期尚早」と反対し、実現しませんでした。
9-3 1932年6月24日――人民党の革命
人民党(คณะราษฎร=カナ・ラーサドーン)の中核は、1920年代にパリで結成された留学生グループでした。その中心にいたのが、法学を学んだプリーディー・パノムヨンと、砲兵将校ピブーンソンクラームです。国内ではパホンヨーティン大佐ら中堅将校が加わりました。
計画は周到でした。王が海辺の離宮ホアヒンに滞在する時期を選び、「軍の演習」と偽って部隊を動かし、通信と交通の要所を押さえる。王族を人質としつつ危害は加えない。そして国王に退位ではなく、立憲君主としての留位を求める。この一手が、革命を内戦にしませんでした。
❝ ラーマ7世の返答(要旨)
私は、国民のために統治権を国民に譲ることを望んでいた。ただし、諸君の方法には賛成しかねる。しかし国の平穏のために、諸君の求めに応じよう。
王は6月26日にバンコクへ戻り、翌27日、タイ最初の憲法(暫定)に署名した。
| # | 原則 | タイ語 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 1 | 独立 | เอกราช | 政治・司法・経済の完全な独立 |
| 2 | 安全 | ความปลอดภัย | 国内の治安を保つ |
| 3 | 経済 | เศรษฐกิจ | 国民に職と幸福を。経済計画の立案 |
| 4 | 平等 | เสมอภาค | すべての国民に等しい権利を |
| 5 | 自由 | เสรีภาพ | 他の5原則に反しない限りの自由 |
| 6 | 教育 | การศึกษา | 国民全体への教育の普及 |
9-4 革命のあとの分裂
革命の成功は、すぐに内部対立に変わります。1933年3月、プリーディーが提出した国民経済計画案(通称「黄表紙」)は、土地の国有化と国家による雇用を柱とする急進的な内容でした。保守派はこれを「共産主義」と非難し、王も反対を表明。プリーディーは国外へ追われます。
同年6月、パホンがクーデターで議会を掌握し、プリーディーを呼び戻しました。これに対して10月、王族ボーウォラデート親王が地方の部隊を率いて反乱を起こします。ボーウォラデートの乱は約2週間で鎮圧され、この勝利によって「軍が政治の主役」という構図が固まりました。
そして1935年3月2日、イギリス滞在中のラーマ7世は退位を表明します。
❝ ラーマ7世の退位声明(有名な一節)
私は、すべての国民に主権を譲る意志をもっていた。しかし、いかなる個人にも、いかなる一党派にも、国民の声を聞かずに恣意的に権力をふるうために譲るつもりはない。
後継には、スイスに留学中だった9歳のアーナンタマヒドン(ラーマ8世)が選ばれました。幼い王は不在のまま、国政は完全に人民党と軍の手に委ねられます。
💭 6月24日はいつ「消えた」か
1932年から1950年代まで、6月24日は建国記念日としてタイ最大の祝日でした。王宮前広場では軍事パレードが行われ、民主記念塔(1939年建立)はその象徴として造られました。
しかし1960年、サリット政権が国家の日を国王誕生日(12月5日)に変更。以後、人民党の記憶は公的な場から後退していきます。2017年には、革命の場所に埋め込まれていた人民党の記念プレートが一夜にして別のものに差し替えられ、大きな議論を呼びました。歴史の記憶は、いまも現在進行形の政治なのです。
📍 民主記念塔(アヌサーワリー・プラチャーティパタイ)
カオサン通りの東、ラーチャダムヌーン大通りの中央にある白い記念塔です。1932年の革命を記念して1939年に建てられ、高さ24メートルの4枚の翼(6月24日)、中央の憲法を載せた台(暫定憲法)、75門の砲弾(仏暦2475年=1932年)と、細部のすべてが革命の日付を表しています。
この塔は、1973年10月14日、1992年5月、2020年の抗議行動と、つねに民主化運動の集合場所となってきました。
まとめ
- ラーマ6世は「国家・宗教・国王」の三本柱と三色旗、姓の制定、義務教育で国民統合を進めた。
- 第一次世界大戦に連合国側で参戦し、不平等条約改正の足がかりを得た。
- 世界恐慌と緊縮財政が官僚・軍人の不満を高め、1932年6月24日の立憲革命につながった。
- 人民党は6原則を掲げ、無血で絶対王政を終わらせた。ラーマ7世は立憲君主として留位した。
- 革命後は人民党の分裂・ボーウォラデートの乱を経て軍が台頭し、1935年に王が退位した。
章末チェック
1. ラーマ6世が掲げた三本柱を答え、三色旗の各色との対応を説明しなさい。
国家・宗教・国王。赤=国家、白=宗教、青=国王
2. タイで庶民が姓をもつようになったのはいつか。
1913年(姓の制定法)
3. 人民党の6原則のうち3つを挙げなさい。
独立・安全・経済・平等・自由・教育 から3つ
4. 1932年6月24日の革命が無血で終わった理由を2つ挙げなさい。
国王不在の時期を選び要所を無血で制圧した/退位ではなく立憲君主としての留位を求めた/王がこれを受け入れた など2つ
5. ラーマ7世が退位声明で述べた主旨を説明しなさい。
主権は国民全体に譲るべきであり、特定の個人や党派が国民の声を聞かずに権力をふるうことは認めない
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