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CHAPTER 8近代

近代化と植民地の圧力

1851年 〜 1910年(ラーマ4世・5世) (1851–1910)

この章の要点

  1. 1855年のバウリング条約で自由貿易を受け入れ、経済構造が大きく変わった。
  2. ラーマ5世のチャクリー改革が、近代的な中央集権国家をつくり上げた。
  3. 1893年のパークナム事件をはじめ、周縁の領土を手放すことで中心を守った。

19世紀後半、東南アジアの国々は次々と植民地になりました。ビルマはイギリス領、ベトナム・ラオス・カンボジアはフランス領。そのなかでシャムだけが独立を保ちます。「運がよかった」からではありません。条約・改革・外交・そして領土の割譲という代価を払った、きわめて意識的な選択の結果でした。

8-1 ラーマ4世――27年の僧侶生活のあとに

ラーマ4世(モンクット、在位1851〜1868)は、王位につくまでの27年間を僧として過ごしました。兄(ラーマ3世)が即位したため出家したのですが、この歳月に彼はパーリ語・サンスクリット・ラテン語・英語を学び、西洋の天文学と数学を身につけ、宣教師や商人と交流します。戒律の厳格な実践を求めてタンマユット派(ธรรมยุติกนิกาย)を創始したのもこの時期です。

即位した王は、東南アジアの情勢を冷静に読んでいました。1852年、隣のビルマは第二次英緬戦争で下ビルマを失っています。戦えば負ける。ならば、譲れるものを譲って独立の実質を守る――これが基本方針でした。

バウリング条約(1855年)

1855年、イギリス使節ジョン・バウリングとの間で結ばれた条約は、シャムの経済を根本から変えました。

  • 王室の貿易独占の廃止――誰でも自由に売買できるようになった。
  • 輸入関税は一律3%――関税自主権の喪失。
  • 治外法権――イギリス人はシャムの裁判権に服さない。
  • アヘン貿易と土地の借用をイギリス臣民に認める。

不平等条約であることは明白でした。以後、フランス、アメリカ、オランダ、デンマークなど十数か国と同様の条約が結ばれます。しかし同時に、この条約はシャムを世界市場に接続しました。米の輸出が急増し、中部平野では運河が掘られて水田が広がり、労働力として華人移民がさらに流入します。タイが「世界有数の米輸出国」になる出発点が、ここにありました。

シャムの米輸出量の推移(概数)

1850年ごろ 約5万トン
1870年ごろ 約20万トン
1890年ごろ 約45万トン
1910年ごろ 約100万トン

※ 自由貿易は不平等の産物であると同時に、経済成長の引き金でもあった。

⚠️ 『王様と私』はどこまで本当か

ラーマ4世は、家庭教師アンナ・レオノーウェンズの回想記をもとにした小説・ミュージカル・映画『王様と私』で世界的に知られています。しかしその内容は誇張と創作が多く、タイでは王室への不敬とみなされ、上映が禁止されてきました。

実際のアンナは王子たちに英語を教えた教師の一人にすぎず、王の政策に影響を与えた事実は確認されていません。タイ人の前でこの作品を「タイの歴史」として語るのは避けたほうがよいでしょう。

💭 日食を計算した王

ラーマ4世は天文学者としても優秀でした。1868年8月18日の皆既日食を、2年前から自力で計算し、南部プラチュアップキーリーカン県ワーコーでの観測を予告。外交団を招いて自らの計算の正しさを証明してみせました。「シャムは迷信の国ではない」という強烈なメッセージでした。

しかしこの遠征でマラリアに感染し、王は同年10月に崩御します。8月18日は現在、タイの「科学の日」とされています。

8-2 ラーマ5世のチャクリー改革

ラーマ5世(チュラーロンコーン、在位1868〜1910)は15歳で即位しました。最初の5年は摂政スリヤウォンが実権を握り、王は各地を視察して見聞を広げます。1873年の親政開始にあたり、彼は象徴的な布告を出しました。臣下が王の前でひれ伏す(跪拝の)慣行の廃止です。「人は互いに敬意をもって向き合うべきだ」という宣言でした。

1868
ラーマ5世 即位15歳。5年間は摂政スリヤウォンが実権を握る
1873
跪拝の廃止親政開始の宣言。臣下がひれ伏す慣行をやめさせる
1874
奴隷解放の第一歩生まれた子の身分を段階的に自由にする法
1887〜88
近代的機構の整備陸軍省・シリラート病院・郵便電信の整備
1892
12省制の発足内務省を中心とする中央集権体制。テーサーピバーン制
1893
パークナム事件フランス砲艦がチャオプラヤー川を遡上。ラオス割譲
1897
第1回ヨーロッパ巡幸列強の元首と会見し、独立国としての承認を得る
1902
鉄道と電信の拡張バンコク〜コラート線が全通(1900)、地方統治を支える
1905
奴隷制の全廃/徴兵令身分制度の解体が完了
1910
崩御「チュラーロンコーン大王」。10月23日は祝日

① 身分制度の解体

シャムにはプライ制(平民の労役義務)と奴隷制が残っていました。王は急激な廃止を避け、40年をかけて段階的に解体します。1874年、奴隷の子として生まれた者の身分を年齢とともに自由にする法を出し、1905年、ついに奴隷制を全廃。同年、プライ制も徴兵令と人頭税に置き換えられました。アメリカの南北戦争のような流血なしに身分制を解いたことは、タイの教科書がもっとも誇る事績のひとつです。

② 中央集権化――テーサーピバーン制

1892年、12の省が発足します。中心は内務省で、王の異母弟ダムロン親王が大臣を務めました。地方にはモントン(มณฑล=州)を設け、その下に県・郡・区・村を置き、中央から派遣した官僚が統治する仕組み(テーサーピバーン制)を敷きます。

これにより、それまで貢納を納めるだけだった北部のラーンナー、東北部のラオ系諸侯、南部のマレー系スルタン国が、直接統治される「地方」へと変わりました。地方の王家は年金を受け取る名誉職となり、土地と人の支配権を失います。1902年には、シャン系の反乱(北部)やパタニの抵抗が起きましたが、いずれも鎮圧されました。

改革前(〜1892)
改革後(1892〜)
中央官庁
二大長官+四部制(15世紀以来)
12省(内務・外務・大蔵・国防・司法・教育など)
地方統治
世襲の地方領主と属国王
モントン(州)-県-郡-区-村の階層。中央から知事を派遣
有事に動員する労役軍
常備軍と徴兵制(1905年徴兵令)
財政
徴税請負制で王室と請負人が分け合う
大蔵省による一元的な国庫と近代的予算
身分制
プライ制・奴隷制
人頭税と自由な労働市場へ(1905年に奴隷制廃止)
司法
三印法典と身分別の裁判
近代的法典と裁判所(治外法権撤廃の条件)

③ インフラと人材

鉄道(1900年にバンコク〜コラート開通)、電信、郵便、シリラート病院(1888年)、近代的な学校制度――これらはいずれも、中央から地方を統治するための神経系でもありました。王子たちはヨーロッパへ留学し、帰国後は各省の要職につきます。王族と官僚が近代国家の担い手となる体制ができあがりました。

8-3 なぜシャムは植民地にならなかったのか

この問いには、タイの教科書も研究者も、複数の要因を挙げます。

独立を保った4つの要因

緩衝国英仏の勢力圏の間に置く価値
譲る外交周縁を割譲して中心を守る
自ら近代化統治能力を示し、保護の口実を消す
王室外交巡幸と姻戚外交で承認を得る

パークナム事件(1893年)――最大の危機

1893年7月13日、フランスの砲艦2隻がチャオプラヤー川河口の砲台を突破し、バンコクの王宮の目の前に投錨しました。フランスはメコン川左岸(現ラオス)の割譲と賠償金を要求し、シャムがイギリスの支援を期待しても、イギリスは動きませんでした。シャムは要求を受け入れ、現在のラオスにあたる広大な地域を失います。王はこの屈辱に打ちのめされ、一時は食を断ったと伝えられます。

ラーマ5世期の領土割譲
相手手放したもの得たもの
1867フランスカンボジアへの宗主権バッタンバン・シェムリアップの保持
1893フランスメコン川左岸(現ラオス)戦争の回避
1904フランスルアンパバーン対岸・チャンパーサック地域チャンタブリー占領の解除
1907フランスバッタンバン・シェムリアップ・シソポントラート・ダーンサーイの返還
1909イギリスケダー・ペルリス・クランタン・トレンガヌ治外法権の段階的撤廃と借款

いずれも周縁部であり、中心(チャオプラヤー流域)は保たれました。これが「譲る外交」の実態です。

💭 「失われた領土」という物語

タイの学校では長らく、これらの割譲が「シャムが列強に奪われた14の領土」として教えられ、地図とともに国民の記憶に刻まれてきました。

しかし歴史家トンチャイ・ウィニッチャクンは著書『地図がつくったタイ』で、近代以前のシャムには線としての国境が存在しなかったことを指摘しました。属国は複数の宗主に同時に貢納することもありました。つまり「失った領土」は、近代的な地図の上で事後的に描かれた喪失でもあるのです。この視点は、いまも続く近隣国との国境問題を考えるうえで重要です。

💭 鉄道・地図・時計――近代化がもたらした「感覚」の変化

ラーマ5世期の改革は、制度だけでなく人びとの感覚も変えました。鉄道は「どこまでが自分の国か」を体で理解させ、測量と地図は、それまで曖昧だった国境を線として描き出しました。

時計もそうです。それまで時刻は寺の鐘と太陽で測られていましたが、鉄道の時刻表と役所の勤務時間が、全国共通の時間を持ち込みます。1889年には年始が4月1日に統一され、1920年には全国共通の標準時が定められました。近代国家とは、同じ地図と同じ時計を共有する人びとの集まりなのです。

📍 ラーマ5世に会える場所

ドゥシット地区――王宮前広場の騎馬像、チーク材の宮殿ウィマンメーク(改修のため公開状況は要確認)、アナンタサマーコム宮殿。そして10月23日のチュラーロンコーン大王記念日には、騎馬像の前が花で埋め尽くされます。

改革の実務を担ったダムロン親王の旧邸は、現在ダムロン親王図書館として公開されています。

まとめ

  • ラーマ4世は27年の僧侶生活で西洋の知識を身につけ、現実的な対外方針をとった。
  • 1855年のバウリング条約は不平等条約だが、米輸出国としての発展の起点にもなった。
  • ラーマ5世は奴隷制・プライ制を段階的に廃止し、1892年に12省制とテーサーピバーン制を敷いた。
  • 1893年のパークナム事件でラオスを失い、以後1909年まで周縁部の割譲が続いた。
  • 独立を保てたのは、緩衝国という位置、譲る外交、自発的近代化、王室外交の組み合わせによる。

章末チェック

1. バウリング条約の内容を3点挙げなさい。

王室の貿易独占廃止/輸入関税3%/治外法権(アヘン貿易の容認なども可)

2. ラーマ5世が1873年に廃止した慣行と、その象徴的な意味を説明しなさい。

跪拝の廃止。人が互いに敬意をもって向き合うという近代化の宣言

3. テーサーピバーン制とは何か。それによって地方はどう変わったか。

モントン(州)の下に県・郡・区・村を置き中央から官僚を派遣する地方統治制度。北部・東北部・南部の半独立勢力が直接統治下に入った

4. パークナム事件(1893年)の経過と結果を説明しなさい。

フランス砲艦がバンコクまで遡上して圧力をかけ、シャムはメコン左岸(ラオス)を割譲した

5. シャムが植民地化を免れた要因を3つ挙げなさい。

英仏の緩衝国という位置/周縁部を割譲する外交/自発的な近代化改革/王室による欧州外交 から3つ

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